top of page

息子を救った日本古来の発酵を世界に伝える!


―メルボルンで米糀づくりに取り組む日本人女性職人―

ここ数年の発酵への注目は日本だけで起こっているわけではない。世界中のシェフや食の関係者が発酵に着目している。もちろん発酵は日本独自の文化ではなく、欧州にもチーズやワイン、ピクルス系等、発酵食品はたくさんある。アジアにおいてもキムチやテンペなど、日本とは異なる菌が用いられて発酵の伝統は長らく継承されている。しかしここにきて、海外からの熱い視線が、「糀=Koji」という日本の発酵に注がれていることも事実だ。

日本の発酵の菌、つまり微生物がガットヘルス(腸内環境)に与える影響について、世界の多くの人々が注目するようになり、医者自らもこの作用について語るようになってきた。長らく「体験」として「よいもの」だったが、科学的に証明される「よいもの」になってきたのだ。

飯田冴子さんも糀のすばらしさに気づいた一人だ。彼女は現在、オーストラリア東南部のメルボルンで日本の糀、味噌、甘糀など発酵調味料を作っている。なぜオーストラリアで? 実は彼女は8年前まで東京の広告代理店で働いていた。仕事は充実していたが、地に足のついた生活をしたいという想いは心のどこかにあった。自然あふれる場所を求め、華やかな世界から一転、ワーキングホリデーを活用してオーストラリアへと旅立った。

オーストラリアで働き始めて2年目に元気な男の子、レイ君が生まれた。しかしその半年後、冴子さんはそれまでの食生活を全面的に見直さねばならない現実に直面する。最愛の息子が重症のアトピー性皮膚炎に苦しみ始めたのだ。赤ちゃんの柔らかい玉のような肌がただれ、常時かゆみに襲われるという悪夢を目の当たりにした。さらに、乳製品、卵などの食物アレルギーも発覚した。苦しむ我が子を目の前に、「何とかしなければならない」と気持ちは焦った。異国の地で冴子さんは、レイ君のために必至に情報収集した。

「アレルギーが起こる経緯について調べてみたら、免疫の過剰反応によって引き起こされるということ、そして身体の免疫反応は、腸内環境がカギであるということ、腸内環境の改善には発酵食品を取り入れるのが最も良いということを知りました」と冴子さんは言う。「症状がひどい場合は薬を使うことも避けられませんが、私は薬を用いるという対症療法ではなく、息子の体質を根本的に改善することを目指しました。」

 

最近は研究も進み、アレルギーも腸内環境の悪化が原因と言われるようになった。腸内環境とアレルギーの関係性を知った彼女は薬と並行して、食べ物で善玉菌を増やす方法を模索し、研究した。そして行き着いたのが、日本古来の米糀だった。

「それまでは、食べ物で健康を維持するという考えをあまり持っていませんでした。東京では会社員として忙しい毎日を送っていたので、料理も手の込んだものは作っていませんでした。でも、息子が目の前で苦しんでいる様子を見て、母親としてできる最大限のことをやるのだと決意したんです」と冴子さんは言う。

それからはずっと糀の勉強を独学で続けている。米糀を作るには、米と菌(種糀)と道具が必要だ。米以外はオーストラリアにはない。種糀はインターネットで日本から購入し、糀を発酵させる際に不可欠な木製の糀蓋は秋田県から取り寄せた。メルボルンの天候は、四季があり温帯である点は日本と共通しているが、湿度や気温がかなり違う。

日本との気温差は7度から12度あり、メルボルンの方が涼しい。湿度の差はもっと顕著だ。東京の年間平均降水量は約1,500㎜。メルボルンはその約3分の1である。糀の発酵には日本の多雨、つまり湿度が不可欠だ。日本の降雨量の多さゆえにカビの一種である米糀の菌が発達したと言われる。メルボルンのような乾燥した場所でその菌は育つのか?

「メルボルンは爽やかな天候です。糀はカビの一種ですから湿度が不可欠です。菌の繁殖を促進するため、ヒーターや加湿器を駆使して湿った環境を作るよう工夫を重ねました」と冴子さんは言う。

冴子さんは試行錯誤を重ね、息子のために味噌や自家製の糀を使った塩糀、甘糀をほぼ毎日のように作り食べさせてきた。幸いにもレイ君は、野菜たっぷりの味噌汁や自家製の甘糀が大好物だ。冴子さんの手作りの発酵食品を好んでたくさん食べてくれた。息子のこの「協力」が、功を奏したと冴子さんは振り返る。

 

4歳を過ぎたころから、レイ君のアトピーの症状が改善してきた。それは自分でも実感できた。「肌の調子は目に見えてよくなってきました。食物アレルギーも複数あったので、焼き菓子や食事づくりに甘糀や味噌をできるだけ活用しました。菌の力を実感し、それが支えとなって日々、より美味しい糀や味噌をつくりたいというモチベーションになっていったんです」と冴子さん。この頃、本格的に糀づくりに取り組みたいという想いが心に芽生えてきた。幸いにもレイ君のアトピーは5歳になるころにはすっかり消えた。6歳になった今では、健康になった肌で日焼けし、汗も気にせず元気に駆け回っている。

「日本でも子供のアトピーに悩む若いお母さんはたくさんいると思います。日本には昔からこんなすばらしい微生物の働きがあるのに、友人に話してもあまり知られていないことがほとんどでした。小さな命を預かるお母さんたちに糀のすばらしさを知ってほしい、そう思って私はメルボルンで米糀を作り、ここから発信しています」と冴子さんは言う。

学校や蔵で正式に糀づくりを学んだわけではない冴子さんだが、母親としての責任感と『糀の力で人に健康になってもらいたい』という使命感が彼女を突き動かしている。

この夏、冴子さんは修行も兼ねて九州の有名な麹蔵を2週間訪れた。日本の糀*1づくりは丁寧できめ細かい。ここでは一般的に味噌や甘酒に使われることが多い糀用の黄糀に加え、焼酎醸造に用いられる白麹や黒麹についても麹菌の専門家から教わった。欧米ではこの焼酎用の麹が様々な料理に用いられ始めたことを知り、活用の多様性も認める一方で、日本人として糀を海外で売る以上、糀に関する基本・伝統を日本人の専門家からみっちり教わる必要を感じていた。

「実際、白麹でつくる塩糀は非常に美味しくて、伝統と革新の感覚を同時にバランスよく持っていたいと思っています」と冴子さんは言う。

糀のカビを繁殖させる種麹の世界は深く神秘的だ。今般、科学が追いついてきて解明できる部分が増えてきたが、まだわからないことはたくさん残されている。

「まだまだ経験が足りない私に、老舗の種麹屋が直接、基礎から丁寧に教えて下さいました。いろいろな作物に種つけをしたいというリクエストにも寛大に答えてくださいました」と冴子さん。ここでの学びをオーストラリアに持ち帰り、地域の人々に提供する商品にも取り入れるのだと言う。

実は冴子さんは、今年3月から商品販売も始めている。手作り味噌をメルボルンのファーマーズマーケットで売ってみたら思っていた以上に反応が良く、あっという間に売り切れた。

オーストラリアでも意識の高い人の間では味噌はブーム。健康によいという情報は浸透してきている。また、メルボルンでは、地元のレストランとのコラボレーションで味噌づくりワークショップも開催している。

 

オーストラリア人の味噌づくりに対する熱は並ではない、と冴子さんは言う。地元のシェフたちの発想は斬新で、「日本人が思いもつかない方法で料理に糀を活用したいという彼らのアイデアにはいつも驚かされます」と冴子さんは微笑む。

冴子さんのブランド「koji and co」の米味噌は、豆はビクトリア州でとれるひよこ豆を使い、塩はオーストラリア西部の「ピンクレイク」として知られる、まさにピンク色の湖から作った天然塩を用いている。ここに自分で作った米糀を混ぜているわけだ。

「地元のお客さんに日本の味噌はよく知られているし、嬉しいことに日本人である私が作った味噌を美味しいと言ってもらえました。現在は需要に対して生産が追いつかないのが現状です。もっと大量に作らなければならなくなるかもしれません。」現在一人で作っているものの、将来的なキャパシティの拡大を検討し始めている。

もちろん、たくさん売れたからと言ってバラ色な将来が待っているわけではない。増量生産や流通整備に対応するインフラを構築するには投資も人手も必要だ。加えて、難解なHACCPという課題もある。糀や味噌がメルボルンで人気でも、乗り越えなければならない壁は厚い。

それでもすでに一人の人間のアレルギーが冴子さんの作った糀の力によって救われた。彼女の発酵食品づくりは、この体験を一人でも多くの人に伝えたいという想いに支えられている。一回一回手作りで仕上げていく糀づくりに成功のフォーミュラはない。菌という微生物を用いる食品づくりは、微妙な気温・湿度との共同作業に他ならないからだ。同じ量、同じ温度、同じ時間でも結果がまるで異なる場合は多々ある。その不安定な領域を、知識に加えて、直感や自然との対話力で安定させていくのが職人への道だ。

「息子の経験から学んだことがたくさんあるので、今後は子ども向けの甘糀商品を開発したいと思っています。誰もが美味しく食べられる無添加でグルテンフリーの美味しいデザートを考えています」と冴子さんは抱負を語る。

この地球上に、アトピーや食物アレルギーに苦しむ小さな子どもがいる限り、腸内環境の乱れで体調不良に悩む人がいる限り、南半球のオーストラリアで、冴子さんの糀づくりの挑戦はこれからも続いていく。

*1: 本稿では、「糀」は日本由来の菌による米コウジのことを指している。その他のコウジや菌自体を指す場合は「麹」を用いた。

Recent Posts
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page